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日本の伝統音楽の歴史を、時代を追って、ディープに
掘り下げるこの連載。長唄工房ファンクラブ「工房プラス」の
かわら版に好評掲載中です。   (弥佶:著)
E能の原型「猿楽能」−鎌倉 D「散楽」「田楽能」−鎌倉
C琵琶法師の「平曲」−鎌倉 B「今様」−平安
A中国文化の輸入−平安 @日本「音楽」のはじまり

 

E能の原型「猿楽能」−鎌倉

E鎌倉時代に大成した「田楽」と「散楽」。雑芸であった「田楽」が洗練され「田楽能」となり、「散楽」が転化して「猿楽」がとなります。その二つがまた融合して「猿楽能」、現在でいう「能」の原型が室町時代に生まれます。「能楽」と呼ばれるようになるのは明治以降の話でそれ以前は「猿楽能」もしくは「猿楽」と呼ばれていました。 室町幕府三代将軍足利義満が結崎座(ゆうざきざ。後の観世流)の猿楽師であった観阿弥、世阿弥父子の演技に深く感銘し、強力な保護を行ったのが「能」の発祥といわれています。以来、「能」は武家階級の間で盛んに愛好され、極度に洗練された芸術にまで高められていきます。 「能」の謡を「謡曲(ようきょく)」といい、笛(のうかん)、小鼓、大皷、太鼓の四拍子(しびょうし)といわれる楽器で伴奏をしました。四拍子の中で唯一の旋律楽器である能管は特殊な構造を持ち、旋律を演奏することより、歌の合間に鋭く発する単音や息使いなどを演奏し易いようになっています。この四拍子が現在でも日本伝統音楽の打楽器の基本形となっています。 能の音楽は雅楽のように旋律を演奏はしないで、謡に密着して同化し独自の世界を作り上げました。日本伝統音楽の固有の特色とも言えるでしょう。 同じころヨーロッパでは「ルネサンス」との「宗教改革」というの大きな出来事が起きます。特にルターの宗教改革は音楽史上に大変大きな影響を与えます。 当時、ヨーロッパ音楽の中心ともいえる、キリスト教の典礼聖歌のグレゴリオ聖歌は、ある意味日本の歌と同じように歌詞を伝えることに最大の努力をはらっていましたが、ルターの始めた合唱式の賛美歌によって、ヨーロッパの音楽は和声に対する明確な方向性を持ち、和声法という音楽理論を持ち、人間の声を楽器の様に機能させることを目指すようになりました。明治の文明開化まで、常に声が言葉の伝達だけを目指していた日本音楽との違いは、ルターの宗教改革によりなされたとも言えるでしょう。 やがて戦乱の世を勝ち抜いて、織田信長、豊臣秀吉に代表される新興武士が登場してきます。彼らは雄大で豪華な文化を愛し、海外貿易で活躍する新興商人と共に今までの日本にはなかった絢爛たる文化を興しました。僅か三十年足らずでしたが、安土桃山文化という一つの転機となる時代でした。

D「散楽」「田楽能」−鎌倉

D鎌倉時代に二つの芸能が大成します。「散楽」と「田楽能」です。奈良時代に中国から伝わった「散楽(さんがく)」は、曲芸や奇術に歌や舞を伴った演劇の一種でした。散楽はチベット語のサンローという言葉が語源で、「新しい遊戯」という意味を持ちます。時には淫猥なことも意味する語で、平安期の京都で極めて卑俗な散楽が曲芸と共に行われたことなどが記録にございます。ついには宮廷に入ることを禁じられるようになりました。
「田楽(でんがく)」は田植えの行事を笛・鼓・ササラなどの伴奏と共に、花笠に高足駄という風俗で歌い踊るものです。現在も民俗芸能として全国各地に残っております。平安の末頃から京都で流行り、後に「田楽法師」と呼ばれる僧も現われ、組合組織を作るまで発展します。竹馬のような高い棒に乗って田楽を演ずる姿が、串刺しになった様で「豆腐田楽」の由来にもなっております。この田楽が「延年(えんねん)」というものを取り入れ、高度になったものが「田楽能(でんがくのう)」と言われます。
 延年は長唄「勧進帳」の中で弁慶が舞うことで有名ですが、元々は延暦寺、東大寺、興福寺などの大寺で行われたもので、中には「遊僧(ゆうそう)」と呼ばれた、延年の専門の僧もいたようです。勧進帳のなかでも弁慶の事を「西塔の遊僧」と称しています。内容は多岐に渡って色々なものが見られますが、その中でも「風流(ふりゅう)」と呼ばれるものは、大変にドラマチックなもので、先ず主人公が現われて自己の来歴と現われた理由を告げ、そこにワキと呼ばれる人が登場して展開し、神仏が現われて共に唐に渡るという筋が多く見られます。仏教芸能ですので内容はこのようになりますが、構造的には後に現われる「能(のう)」の形式の原型になっております。こういったドラマチックな筋書が最後の舞楽のプロローグになるというのが延年の仕組みになっています。田楽はこの仕組を参考にして猥雑な民俗的芸能のレベルを高め、田楽能として芸術性を持つようになって参ります。そしてこの田楽能と散楽とが「能」の前駆となるものなのです。

C琵琶法師の「平曲」−鎌倉

C前回、宮中歌会始めの際の発声にみられるような、余計なヴィブラートをかけない澄んだ透明感のある発声は日本の貴族社会特有のものというお話をしました。その名の通り、日本の歴史の中でも比較的平穏であった平安時代が終わり、武士といわれる階級が実権を握る鎌倉時代がやって来ます。鎌倉時代は音楽的には暗黒時代といわれています。非常時続きの世相ゆえに音楽に限らず、平安朝ののんびりとした文化が生れる状況ではありませんでした。そのような停滞した時代に「平家物語」という全く新しい文学が誕生します。この物語は、文字を読むことの出来ない盲目の琵琶法師によって伝えられました。彼らは京都を中心に、日本全国を廻り人々に物語を語って聴かせたのです。声明の流れを汲む節回しや漢語、俗語、和歌、歌謡などのあらゆる技法を駆使し、会話体等も交えながら人々の心を捉えました。小泉八雲の「耳なし法一」などを見るとその姿を想像することができます。「法師」という尊称で呼ばれながらも、実は侮蔑され差別されていた彼らは、そのエネルギーの捌け口としたのでしょうか、それまでには無い鋭角的な言葉を多用しました。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・。」
と続く平家物語は「シャ・シュ・ショ」「ジャ・ジュ・ジョ」などの拗濁音を駆使して音響効果を高め、演出しました。この平家物語の作者が特定できないのは、多くの琵琶法師が語り継いで、時代の好みを反映しつつ成立させたことの証拠ではないでしょうか。貴族たちの清音が武士たちの濁音に変わった事は日本音楽史上の大変大きな出来事です。この琵琶法師の音楽を「平曲(へいきょく)」といいます。平曲はその後に現われる謡曲、浄瑠璃に多大な影響を与え、日本伝統音楽の最も大きな節目を作る事となります。

B「今様」−平安

B中国から輸入された「雅楽」や宮中で流行っていた神に奉げる「神楽歌(かぐらうた)」、チベット語のサイバール(「地方の恋歌」の意味)が語源である「催馬楽(さいばら)」といった音楽が盛んに行われていた平安時代。やがてこれらの音楽も形式が固定化され形骸化され飽きられる時が来ます。そして現代風という意味の新しい歌謡である「今様(いまよう)」が登場します。
最澄、空海らによって中国からもたらされた「声明」は、「和讃」という日本語の説教を生み出し、様々な芸能に影響を与えたと前回お話いたしました。「和讃」は7・5調、4句からなる形式をとっております。「いろは歌」を思い出していただければ解り易いかと思います。蛇足ですが、この「いろは歌」は弘法大師・空海の作との説もございます。この「和讃」と「雅楽」の影響を受けて生まれたのが「今様」といわれる歌です。奈良時代の和歌に代表される5・7調の形式が平安時代になって7・5調に移っていった時代の流れでもあります。
「優れた声の響きが建物の梁の塵を落とした」という中国の故事にならって名付けられた『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には数多くの今様が収められています。その第1巻に「そよ、君が代は千代に一度いる塵の白雲かかる山となるまで」という「君が代」を踏襲しながら、書名にある「塵」を読み込んだ祝い歌があります。冒頭の「そよ」は「ソーヨー」と充分に息を整えてから、次に「キーミーガーヨーワー」と歌ったものでしょう。現在でも宮中の歌会始め際の発声を聞いて感じるように、余計なヴィブラートをかけず、澄んだ透明感のある声のみが使われています。このような濁った響きを伴わない発声は日本の貴族社会特有のものです。これが、貴族達が政治の実権を失う鎌倉時代になると、正反対の濁音を多用する芸能が発生することになります。武士たちが好んだ「平曲(へいきょく)」です。

A中国文化の輸入−平安

A皆様ご存知の通り、日本は古代から中世にかけて当時の最大の文明国である中国から、数多くのものを輸入しました。音楽や楽器もその例に漏れません。
元来、中国の音楽には祭祀・儀式用の「正楽」と宴席用の「俗楽」の二つがあり、約50種類の楽器がありました。
しかし日本では俗楽、またそのうち「燕楽(えんがく)」のみを取り入れたため、正楽用の楽器は必要とせずに、30数種の楽器を輸入しました。そしてその中から、伝承の困難なもの、高価で維持が難しいものを外し、さらに日本人の美意識に合った約10種類の楽器だけを残すことになります。現在の雅楽に使われている笙(しょう)や篳篥(ひちりき)等のことです。
平安期。中国は唐と言う時代でした。この大国も国力の衰えを見せはじめます。
遣唐使が廃止され、日本独自の文化を創ろうという「国風化」が盛んになり、ここで「源氏物語」「枕草紙」という女流仮名文字文学も花を咲かすのですが、数多くの文化にもその波は押し寄せてきます。
正暦804年、805年に唐で仏教を学んだ最澄、空海と言う二人の学僧が相次いで帰国します。
二人の持ち帰った「声明(しょうみょう)」は、元々インドの学問でありましたが、日本に入って僧の唱える仏教儀式の声楽になりました。サンスクリット語(梵語)や唐の言葉で歌われていたものが、国風化の流れで日本的な節廻しで歌う漢文の「講式(こうしき)」や日本語の「和讃(わさん)」に変わっていきます。善男善女リズミカルにわかり易い説教を聞かせるこの歌は、次第に一般民衆に広がって後の芸能に大きな影響を与えることとなります。

@日本「音楽」のはじまり

@日本の音楽をその歴史から鑑賞の仕方までわかり易くご説明しましょう。
「音楽」という言葉が歴史の中に最初に表れるのは、紀元前3世紀中頃、秦の時代「呂氏春秋(りょししゅんじゅう)」という本の中です。日本では奈良時代の「続日本紀」、光明皇后が行った、東大寺の大仏開眼式の件に表れます。もちろん、楽器自体は紀元前70世紀頃の中国で「?(けん)」という石笛があり、紀元前40世紀のエジプトには「縦笛、鈴、オカリナ」、元前30世紀のインドには「笛、タンバリン」があったという記録が残っています。日本では「古事記」の記述から5世紀頃の「5〜6弦の琴、竹笛、肩から下げる太鼓、鈴」が最も古いようです。453年允恭天皇の葬儀に朝鮮半島・新羅(しらぎ)から音楽家が参列したとあります。
「音楽」という字の意味は何でしょうか。
『音』は「言」に節があるという意味の「一」を加えた形です。金石糸竹土革木の発する声の意味。「日」は祝詞を収める器。自然の物から出た声が神の訪ない(おとない)を示すということ。
『楽』は「樂」という字で元々手に持って振り鳴らす鈴のことです。古くは邪気を払い、病を治すものとされていたので「薬」という字が生まれたようです。「ガク」というのはおそらく鈴の擬音からきたものといわれています。分解すると「白」が鼓、「幺」は?(ヘイ・振太鼓のこと)、つまり「音」はオトでなくコエで(神様の)、「楽」の方がオトだったようです。
次回は、中国から輸入された音楽がどうやって日本の音楽になっていったかをお話しましょう。

 

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